ツワネオープンをホームコースで戦うG・コツィエには「パーティー三昧」の過去があった
2013年2月16日(土)午前9:32
欧州ツアー中継の実況を担当している小松直行アナウンサーが、欧州ツアーの最新動向や見どころ等を、小松アナならではの視点でお届けします。
目次:
■ツワネオープンをホームコースで戦うG・コツィエには「パーティー三昧」の過去があった
■ゲイリー・“グローバル"・プレイヤー
■小松の小耳:「薬物テストは茶番だぜ」と吠えたJ・デイリー、メジャー勝者だけのあの試合が米本土復帰!R・マキロイとM・ジームの差・・・
■こまつのソラミミ♪:「バンカーからのチップイン」って、いったい?!
ツワネオープン
南アフリカ3連戦の締めくくりは首都プレトリアです。プレトリアはハウテン州北部のツワネ市都市圏にある地区の名称で、2000年までは単独の都市としての権限を有していました。M・W・プレトリウス初代大統領がイギリスによる植民地支配に抵抗したアフリカーナー(ポール族、オランダ系移民)のリーダーだった父と叔父にちなんでプレトリア・フィラデルフィアと名づけたことに由来しているそうです。
2005年3月8日、プレトリアの市議会によって市名を「ツワネ(Tshwane)」に改名する事が決議され、同年5月26日、南ア地名評議会(SAGNC)が「ツワネ」に改名する案を認めました。「ツワネ」は先住民ンデベレ族の首長の名前です。しかし、アフリカーナーは改名に猛反対。2012年末までに「ツワネ」に変更する予定だったが、2012年12月の住民投票では反対票が過半数を上回る予期せぬ結果となり、与党ANCの政治的思惑もあって、変更は棚上げとなった模様。
プレトリアはツワネ都市圏の地域名のひとつとして存続。ツワネはプレトリアを含む都市圏の名称として使用され、プレトリアはツワネ都市圏の地域名のひとつとして存続することとなりました。
というわけで、都市名変更を国際的にアピールする一環として開催されるはずだったこの大会ですが、ツワネは南アで最初に学校でのゴルフ授業を採用した都市圏でもあり、ゴルフ観光振興を期待する地元の活発なサポートの下、2013年の第一回からエキサイティングな勝負が展開されています。
欧州ツアーとサンシャインツアーの共催イベントとして世界へ発信され、2014年の総視聴可能世帯数は2億1700万世帯に及びました。もちろん、地元のゴルフ振興も大いに盛り上がっています。
去年は大会と同時にクリニック(ゴルフ教室)が地域北部のゴルフセンター(マボペン・ドライビングレンジ)で開催され、地域の5つの小学校から子どもたちがやってきて、欧州、南ア両ツアーのプロたちから直接指導を受けました。子どもたちの中から、世界へ羽ばたく猛者たちの生まれる日もそう遠くないことでしょう。
プレトリアCCとG・コツィエ
今年の舞台は創設105年の歴史を誇るプレトリアCCです。1910年開場。2004年にゲイリー・プレイヤーによって改造され、すでにサンシャインツアーとその2部ツアーの試合が開催されています。歴史豊かなクラブからは多くのチャンピオンも生まれており、最近ではリチャード・スターニー、ジョージ・コツィエのホームクラブです。
去年のジョバーグオープンで初優勝を遂げたジョージ・コツィエは、10歳からメンバーになりました。ジュニア時代のエピソードがあります。他コースで友人たちとプレイしていて、あまりの暑さにシャツを脱いで裸でプレイしていたところをコミッティーに見咎められ、ホームコースであるプレトリアCCへ申し送られて、エチケット違反として、6週間のプレイ停止と土曜日の「奉仕活動」を科された経験があるのです。それは1番ホール、2番ホールのラフで球のスポッターとして働く、というものでした。球が来ないと、コツィエは商学や経営学の教科書を読んでいたそうです。
そのかいもあったのか、彼は2005年の南ア・アマチュア選手権で優勝したのち、南カリフォルニア大学サンディエゴ校に留学します。しかし、1期4か月のみでやめてしまいます。理由は本人曰く「パーティー三昧」で、80が切れないほどにゴルフの腕が急降下したとのこと。レティーフ・グーセン、ティム・クラークと一緒に回ったその年の南アオープンで84-88というスコアに終わり、学業を断念してゴルフ専念を決意したそうです。
コース上でのコツィエは真剣そのものには見えますが、どこか茫洋としたところがあるのは体型のせいでしょうか。気持ちが彷徨い出しやすいタイプかもしれませんが、これからどうやって成熟していくのか、楽しみです。
今週は地元南アでの最後の共催試合、しかもホームコースでの一戦ですから、期待しましょう。
1日目:3月17日(火)午後2:30?5:30
2日目:3月18日(水)午後4:00?7:00
3日目:3月19日(木)午後4:00?7:00
最終日:3月20日(金)午後4:00?8:00
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元祖ゴルフフィットネス信奉者、G・プレイヤー
ゲイリー・プレイヤー(Gary Jim Player、1935/11/1-)はゴルフ史上、もっとも国際的に活躍したプロゴルファーです。1952年にプロ転向して以来、船で、飛行機で世界を巡った距離は1200万マイル。地球を480周回る旅の途上、文字通り世界各地で163勝をあげています。
母国南アフリカオープンには1956年から1981年までの25年間に5連勝も含む13勝。オーストラリアオープンに6勝。メジャー9勝。ジーン・サラゼン、ベン・ホーガンについでの生涯グランドスラム達成者です。
1959年に初勝利の全英オープンで3勝。マスターズでは1961年に初めての海外からのチャンピオンとなり3勝。全米プロには1962年と1972年に勝ち、全米オープンでは1965年、豪のケル・ネーグルをプレイオフで破って、南アフリカ出身者として初めて優勝を果たしました。
メジャー優勝の最初の4勝でグランドスラムを達成しているのはG・プレイヤーとタイガー・ウッズだけです。
ペンシルヴェニア州のアロニミンクGCで全米プロに勝ったとき、すでに世界中で優勝を重ね、アメリカでも賞金王となっていましたが、その年は調子を落として全英オープンの出場権も得られず、試合ごとに長旅を繰り返す生活に嫌気がさし、エイジェントのマーク・マコーマック(IMG創設者)に「もう続けられない」とこぼしたといいます。しかし、瑞々しい緑のフェアウエイを歩くうちに、自分をこれまで突き動かして来た感覚と自信が蘇り、ボブ・ゴールビーを1打差で下しました。
南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)が国際社会から非難されるさなかの1969年、オハイオ州デイトンでの全米プロでは、ギャラリーから終始、激しい野次を浴びせ続けられながら戦い抜き、勝者レイモンド・フロイドに1打差まで迫って終えました。そのことがどれだけ精神力を必要とすることかは、想像に難くありません。
続く1970年シーズンは護衛をつけて試合に出ました。アパルトヘイトへの非難に耐えてプレイを続けることこそ、ゲイリー・プレイヤー自身にとっての反アパルトヘイトの意思表示だったのでしょう。
そうした行動の切っ先にいても、ゲイリー・プレイヤーはきわめて穏やかでした。それは、自身のゴルフへの思いに裏打ちされたものにほかならないでしょう。ゴルフに打ち込むゴルファーの精神的な強さを言うなら、それは単にゲームの中のミスや不調、勝利への欲望だけを言うのではないということなのだ、ということをゲイリー・プレイヤーは身をもって示したと言えるでしょう。
170cm、69kgという体格でパーマー、ニクラスとともに“ビッグ・スリー・ゴルフ"と讃えられる時代を築くのは、ダイエットとトレーニングによる体調管理、体力作りの賜物。ゴルフにおいて、21世紀になってようやく常識となったフィジカル・フィットネスの重要性を50年前から実践していたのがゲイリー・プレイヤーです。
ゴルフへの情熱と献身はいつでも讃えられる美徳ですが、それがフィジカル・フィットネスにつながらない限り、単に耳ざわりのよい空言ではないのかと私(元体育教師)は思います。
試合に出続け、世界中の子どもたちに「自分のからだのために努力しろ」と説くゲイリー・プレイヤー。80歳になろうとするいまもパッションをフィットネスで体現する姿は、本当に偉大なモデルです。
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